グローバル競争の鍵となるメンタルヘルス対策
(初出:月刊「ザ・ローヤーズ」(ILS出版)2013年1月号)
弁護士 小島健一
1.メンタルヘルス対策は誰のためですか?
あなたの会社は、従業員の心の健康について、どの程度の関心を持ち、どのような対策をとっているだろうか。
従業員のメンタルヘルス対策の必要性が叫ばれて久しいが、特にここ数年は、そのノウハウやマニュアルを解説する書籍やセミナー、関連サービスを提供するビジネスが急増しているように見える。
国の施策としても、2012年11月の衆議院解散による審議未了で一旦廃案となったものの、2011年12月以来国会に提出されていた労働安全衛生法改正案は、事業者に対し、労働者がメンタルヘルス不調に陥る前に、労働者のストレス状況を簡便な方法で確認して、その結果を踏まえて必要な労働者には医師による面接指導を実施し、早期改善に繋げていくという、事前のメンタルヘルス対策を事業主に義務付けようとするものである。
したがって、メンタルヘルス対策に関心の高い会社であれば、産業医の選任や長時間勤務の従業員への医師による面接指導など、労働安全衛生法が義務付けている最低限の対応にとどまらず、精神科医など専門家との連携やEAP(Employee Assistance Programs従業員援助プログラム)といった外部サービスを既に導入しているかもしれない。
ところが、最近の意識調査[1]でも、国や企業のメンタルヘルス対策が「十分取られている」と答えたのは僅か3%であり、41%が「取られていない」、45%が「あまり取られていない」と答えている。回答者自身にメンタルヘルス対策への関心がない場合が含まれている可能性を割り引いても、この調査結果には、メンタルヘルス対策が実施されている、或いは、その効果があがっているとの実感が乏しいことが表われていると思われる。
従業員のメンタルヘルス不調は、もはや、どの企業にも起こる問題である。民間事業所(従業員10人以上)を対象とする調査[2]によれば、事業所規模の大小を問わず、半数を超える事業所に「メンタルヘルスに問題を抱えている正社員」がおり、その人数は3年前に比べて増加傾向にある。また、4分の1の事業所で、過去1年以内にメンタルヘルス上の理由により連続1ヶ月以上の休職、もしくは退職した社員がいる。
しかしながら、45%の事業所がメンタルヘルスケアに「取り組んでいない」と回答しており、過去1年以内に休職・退職者がいる場合でも「取り組んでいない」事業所が3割強と少なくない。
メンタルヘルスケアに「取り組んでいる」と回答した事業所(50%)であっても、その取組みの具体的な内容は、「相談対応窓口の整備」や「教育研修・情報提供」にとどまることが多く、従業員の心の健康の維持・増進について計画的・組織的に取り組み、医療機関や産業保健スタッフを活用している事業所は、大手企業を除けば、ごく一部という状態である。
このように従業員のメンタルヘルス対策になかなか本腰が入らない企業が多いことは、メンタルヘルス対策の優先順位が決して高いものとは認識されていないことを物語っている。実際、企業の人事部門を対象とする調査[3]では、直面している人事課題(三つまで複数回答)として、4割前後が「次世代幹部候補の育成」、「グローバル人材の登用・育成」、「優秀な人材の確保・定着」を挙げる一方、「従業員のメンタルヘルス対策」を挙げたのは2割弱にとどまり、しかも、その半数において、経営トップは「従業員のメンタルヘルス対策」を経営課題として認識していない、と回答している。
激化するグローバル競争の中で、会社自身の生き残りを賭けて日々奮闘しているマネジメントにおいて、メンタルヘルス対策への認識が、“ストレスに弱い一部の従業員のため”、“労災や賠償責任のリスク管理”、といったものにとどまっていれば、その優先順位が低くなるのは、むしろ自然なことであるかもしれない。
しかし、一生のうち一度でもうつ病になる確率(生涯有病率)は10~15%とされ、うつ病は、誰がいつ発症してもおかしくない、非常にありふれた病気だと言われている。それどころか、「できる人たちから燃え尽きている」と指摘する専門家もいる。
確かに、近年、自己中心的でわがままな行動をとることが多いと言われる「新型うつ」の増加が企業を悩ませており、メンタルヘルス不調の社員について芳しくないイメージが持たれているようにも見受けられるが、そもそも、典型的なうつ病は、真面目で、責任感が強く、目標を達成するまで努力を惜しまない性格の人がかかりやすい、と言われている。これは、本来、企業が求めている人物像と一致する。ところが、このようなタイプの人は、会社に不調を隠してハードワークを続け、益々病気を悪化させるという傾向がある。
さらに、うつ病は「伝染する」、つまり、一人がうつ病になると、様々な要因から、その周囲の人もうつ病になる可能性が高まる、とも言われている。
このように、従業員のメンタルヘルス対策は、「できる人」を含め、全ての従業員、ひいては職場全体の生産性を大きく左右する経営課題としてとらえることが、まず何よりも重要である。
2.「できる人」がメンタルヘルス不調から復活した実例
ここで、あるメーカーに勤務する私の友人、佐藤さん(仮名)の実例をご本人の許しを得て紹介する。関係者にご迷惑をお掛けしないよう、本質に関わらない部分には適宜変更を加えている。
佐藤さんは、実直で、信用のおける人柄であり、いつ会っても快活で、如才ない。豪快な話し方ながら、相手への細やかな配慮も怠らない。仕事上のエピソードから垣間見える会社での活躍の様子から、佐藤さんは、周囲から「仕事のできる人」と見られているはずだ。奥さんと共通の趣味である海外旅行に毎年のように出掛けたり、友人を自宅に招いてプロ顔負けの料理の腕を振るったり、プライベートも充実している。このように、メンタル疾患とはおよそ無縁と思われていた佐藤さんが、海外駐在からの帰任をきっかけに、急激なメンタルヘルスの悪化に見舞われた。
佐藤さんは、入社当初、経理部門に従事していたが、ひとたび営業部門に移ると、持ち前の社交性と積極性が開花した。課長に昇進し、海外への長期出張を含め、国際業務の経験も積んだ。そうして、会社がベトナムへの本格進出を決めると、佐藤さんはその立ち上げメンバーに抜擢され、家族を連れて赴任した。
佐藤さんは、現地法人の経営陣の一人として、ベトナム事業の基盤作りに奮闘した。ひとつの会社全体の経営を取り仕切る立場にあり、責任は大きく、苦労も多かったが、充実した3年間だった。この後、帰任を命じられた佐藤さんを人生最大とも言える危機が待っていようとは、誰が想像できただろうか。
帰国後、佐藤さんは、同じ営業でも、全く知識や経験のない製品を担当する部署に配属された。ところが、この部署では、管理職であってもスタッフと同様、細かい作業を自分でこなさなければならなかった。しかも、システムは様変わりしていたから、一から仕事を覚えなければならなかった。
折り悪く、会社では大規模な早期退職募集がアナウンスされ、同僚は次々と辞めていき、人手不足はさらに深刻なものになっていった。顧客に迷惑を掛けてはならないと悪戦苦闘する佐藤さんだったが、佐藤さんに仕事のやり方を教えてくれる人はいなかった。
帰任から1ヶ月も経たないうちに、佐藤さんの心身に異変が現われた。寝付きが悪くなり、夜中に目覚めるともう眠ることができなかった。仕事の能率と判断力が極端に落ちていることを自覚した。文章を読んでいても、全く頭に入って来ない。家に帰ると、真っ暗な部屋に座り込み、じっと虚空を見つめているような状態だった。心配になった奥さんから私が相談を受けたのは、この頃である。
佐藤さんの性格を考えれば、会社での彼は、不調を周囲に悟られまいと気丈に振る舞っているはずだ。また、話に聞く職場の状態では、佐藤さんの異変に気付く人もいるまい。このまま無理を続ければ、佐藤さんは、早晩、仕事が全く出来なくなる、自殺の危険さえあると懸念した。私は、強く勧めた。思い切って会社にありのままの状況を説明し、まとまった休暇をとって休養すること。すぐに精神科を受診し、処方される薬を医師の指示に従ってきちんと飲むこと。私は、精神医療について素人であるが、メンタルヘルス不調が関係する人事労務案件に会社側弁護士として数多く関わってきた経験から、佐藤さんが会社に不調を隠して勤務を続けても、決して良い結果にはならないと確信していた。
しかし、ここからは佐藤さんのすごいところである。翌日には精神科を受診した。「適応障害により2ヶ月以上の療養が必要」と診断されると、すぐに上司や人事部門に事情を説明し、有給休暇を充てて、1週間、2週間とまとまった休みをとり、とにかく休養した。処方された薬もしっかりと飲んだ。そうして、2ヶ月くらいで回復基調に何とか目処をつけると、今度は、自ら人事部の知り合いに相談し、若い頃経験して土地勘のあった経理部門に異動させてもらった。そこで、佐藤さんは、着実に仕事をこなし、徐々に本来の自分を取り戻していった。異動先の上司が佐藤さんの心身の状態に理解を示し、決して回復を焦らせなかったことが、佐藤さんにとって有り難かった。
それから5年。佐藤さんは、部長に昇進し、業界でも注目を集めているシステム開発の中心人物として活躍している。今でも精神科に通院し、弱いものではあるが薬も飲み続けているが、それを周囲に公言している。佐藤さんは、そうすることによって、自分が経験したのと同じような問題を抱えているかもしれない同僚に勇気を持ってもらいたい、と思っている。
メンタルヘルス不調に陥った本人が、自力でこれに対処することは極めて困難であり、周囲の気付き、助言、配慮といったサポートが不可欠である。ところが、当時は、佐藤さんの事業所に産業医はおらず、人事部門もメンタルヘルス不調への対応に不慣れだった。それにもかかわらず、劇的な復活を果たすことができた佐藤さんは、さまざまな幸運に恵まれた、と言える。
中でも、佐藤さんがメンタル疾患を発症しながら持ち前のバイタリティーを失わず、主体的に問題を解決することができたのは、自分の異変に気付いてすぐに、しっかりと休養し、治療に専念したことが、何よりも大きい。
3.グローバル化時代に求められる帰任者への配慮
佐藤さんは、今振り返ると、海外からの帰任者の配属先については、一種の「リハビリ」が必要ではないか、つまり、帰任後の半年くらいは、すぐに営業の第一線には配属せず、部門全体を俯瞰することができ、各部署の仕事の流れを把握することができるような、例えば、その部門の企画や管理などの部署に配属することが望ましいのではないか、と話している。
何年も海外に駐在して日本に戻れば、まるで浦島太郎のような状況になるのは、想像に難くない。同じ職場に戻ったとしても、その顔ぶれや仕事のやり方は変わっている。業務に使用するシステムが刷新されるていことも珍しくはない。
さらに、海外駐在中と日本に戻ってからでは、佐藤さんに与えられる「裁量」の幅が大きく異なっていた。ベトナムでは、現地法人の経営者としてかなり大きな裁量を持ち、自ら判断して解決することが多かった。ところが、日本に戻ると、仕事の裁量は小さくなり、膨大な実務作業に加えて、稟議や根回しなど全く違う動きが求められた。
メンタルヘルス不調に陥るきっかけの一つとして、昇進、降格、異動など、仕事の内容や責任の大きな変化があり、また、「裁量」の広狭は、メンタルヘルス不調の原因となるストレス反応に大きく影響する、と言われている。
海外で活躍して帰国した社員が、せっかくの経験をその会社で活かすことなく辞めていくことが少なくないと言われる。帰任後の配属先に配慮し、業務や役割の変化にうまく慣れさせることができるか否かは、メンタルヘルス対策としてのみならず、貴重な海外経験を積んだ有能な社員のリテンションという観点でも重要であると思われる。
海外駐在経験者へのある意識調査[4]では、駐在中に抱いた任務完了後の不安(複数回答)として、海外駐在経験が活きるか、あるいは具体的な職位といった、帰国後のポジションに関わるものが多数を占めている。
4.ミドルマネジャーのメンタルヘルスケア
産業能率大学の調査[5]によると、約半数以上の課長が、3年前より「業務が増加している」と回答しており、プレーヤーとしての活動割合が半分より多い課長は4割に上る。課長の2人に1人は仕事上の悩みを抱えても相談する相手がおらず、自分で抱え込まざるを得ない状況にある。4割強が、課長になってから自分のメンタルヘルスに不安を感じたことがあるそうである。
ところが、マネジメントは現状に満足してはいない。経団連の報告書[6]によれば、経営トップがミドルマネジャーに求めている最も重要な役割は、「部下のキャリア・将来を見据えた指導・育成」と「経営環境の変化を踏まえた新しい事業や仕組みの企画立案」であるが、多くの経営トップは、自社のミドルマネジャーがこれらの役割を十分に果たせていないと認識している。
このように、現代の多くのミドルマネジャーは、本来の管理業務に加え、プレーイングマネジャーとして現場の実務を牽引しながら、さらに、会社の持続的な発展を担う後進を育成し、グローバル競争を勝ち抜くイノベーションを発信することまで期待され、これまでにないような大きな負荷に押しつぶされそうな実態がある。
そもそも、メンタルヘルス対策として、「ラインによるケア」、すなわち管理職による部下のケアが重要であることはよく知られているが、管理職自身の心が健康でなければ部下のメンタルヘルスに配慮し、支援する余裕などあろうはずもない。それどころか、部下のメンタルヘルス不調をひきおこすパワハラ上司にもなりかねない。
各企業のマネジメントにおかれては、メンタルヘルス対策は、事業を支える全ての従業員の切実なニーズに応えるものであり、事業競争力を維持・強化するための鍵となるものであると、認識を新たにしていただき、従業員のメンタルヘルスの維持・向上のために、さらに大きな関心と経営資源を振り向けていただければと願っている。
なお、本稿の内容は、私の個人的見解であり、所属する法律事務所としての見解ではないことをご理解いただければ幸いである。
[1] 「メンタルヘルス対策は取られていますか?-東洋経済1000人意識調査」(週刊東洋経済2012年11月8日号) 調査時期は2012年10月
[2] 「職場におけるメンタルヘルスケア対策に関する調査」結果(独立行政法人労働政策・研究機構2011年6月23日) 調査時期は2010年9~10月
[3]「人事部門が抱える課題とその取り組み」に関するアンケート(2011年度)(日本生産性本部生産性新聞2011年6月23日) 調査時期は2011年8~9月
[4] 「海外駐在経験者へのJACグローバルタレントモニター調査」(株式会社ジェイエイシーリクルートメント2012年10月) 調査時期は2012年7月
[5]「上場企業の課長を取り巻く状況に関する調査」(産業能率大学2012年10月) 調査時期は2010年9月
[6]「ミドルマネジャーをめぐる現状課題と求められる対応」(日本経団連2012年5月15日)
投稿者等 | |
---|---|
業務分野 |
関連するコラム
-
2024.12.26
奈良 正哉
スタートアップに中高年転職
スタートアップに転職する中高年が増加している。20代、30代を押さえて、40代以上は2022年に比…
-
2024.12.11
橋本 浩史
夜勤時間帯(不活動時間)における割増賃金の算定基礎 ~東京高裁令和6年7月4日判決~
1 はじめに 労基法37条は、時間外等労働の割増賃金の算定基礎を「通常の労働時間又は労働日の賃金」(…
-
2024.11.20
横地 未央
ジョブ型人事指針の公表について
2024年8月28日、内閣官房、経済産業省および厚生労働省は「ジョブ型人事指針」(以下「本指針」とい…
-
2024.11.20
島村 謙
広範な配転命令権を認めなかった最高裁判決とジョブ型雇用
少し前ですが、大学受験を控えた高校生と話す機会がありました。ITエンジニアになりたいそうで、そのため…
小島 健一のコラム
-
2018.04.13
小島 健一
日経MOOK『社長のための残業時間規制対策』をブログで紹介いただきました
尊敬する社会保険労務士・健康経営アドバイザー・日本公認不正検査士協会アソシエイト会員である玉上信明(…
-
2017.06.22
小島 健一
ウェブサイト「健康経営のためのウイルス肝炎対策」
このウェブサイト(http://www.uoeh-u.ac.jp/kouza/sanhoken/hc…
-
2017.03.09
小島 健一
コラム「発達障害と障害者雇用促進法」
コラム「発達障害と障害者雇用促進法」(石井京子他著「人材紹介のプロがつくった 発達障害の人の転職ノー…
-
2017.03.07
小島 健一
「健康経営」に死角はあるか ~「インクルージョン」も一緒にいかがでしょう~
(初出:月刊「ザ・ローヤーズ」(ILS出版)2016年1月号) 弁護士 小島健一 「健康…