人事労務戦略としての健康経営【最終回】
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人事労務戦略としての「健康経営」(6)
(初出:「ビジネスガイド」(日本法令)2017年10月号)
弁護士 小島健一
いよいよ、本連載の最終回です。前号に引き続いて、「ストレス関連疾患予防センター」で行った過労死等に関する企業の法的責任に関する講義を紹介しながら、企業が人事労務戦略として「健康経営」に取り組む意義について総括します。
1 安全配慮義務の行為規範化(前回からの続き)
三柴丈典近畿大学教授による、労働安全衛生法の趣旨を反映させた安全配慮義務の定義は、以下のとおりです。
対象者の安全衛生につき、現にリスク関連情報を得ているか得るべき立場にあり、支配管理可能性を持つ者が、事業の実情に応じて合理的に実行可能な限り、安全衛生関係法上の最低基準(危害防止基準)を遵守すると共に、同法の趣旨を踏まえ、経営工学を含む関係諸科学やシステム論、経験則に基づき、安全衛生に関するリスクの調査と管理(排除ないし最小化)を、同法の非強制規範や同法に関する指針等を参照しつつ実施する等の手続を尽くす義務 ただし、リスクの調査と管理に際しては、個人と集団の双方を対象として、必要に応じ、適切な専門家の関与や利害関係者との協議を得て、1次から3次に至る予防の全段階を実施しなければならない。 (三柴丈典「使用者の健康・安全配慮義務」(「講座・労働法の再生 第3巻(労働条件論の課題)」(日本評論社・2017年6月) 273頁~)【下線は筆者による】 |
このように、三柴教授は、労働安全衛生法体系が事業主に要求または推奨する総合的な予防策を取り込み、安全配慮義務を、安全衛生に関するリスクを調査し、管理する義務として再構成しています。
その背景には、産業構造や事業環境が急速に変化する現代社会に適応するための産業保健政策の変化、具体的には、労働安全衛生法体系の変容(法規準拠型から自主対応型へ)があります。労働安全衛生法は、罰則をもって最低基準を強制する取締法規と、違反する当事者間の合意を無効にして契約内容を変更する強行規定の性格を有する労働基準法から分離独立したという出自から受け継ぐ性格を維持しつつも、罰則のない規範や努力義務の規定を加え、さらに、同法関連の様々なガイドラインを行政が出すことによって、より高いレベルの自主的な労使の取組みを啓発・支援する性格を強めています。
現代社会では、労働者は、業務による疲労やストレスを慢性的に蓄積し易くなり、労働能力を低下・喪失させる原因としても、生活習慣病やメンタル疾患が増えました。企業は、事業の生産性と競争力を確保するため、職場の“安全リスク”のみならず、それより不確実性がさらに高い、従業員の“健康リスク”にも対処しなければなりません。このような現代的なリスクには、国が定めた最低基準を遵守するだけでは上手く対応できません。それぞれの企業がその実力に応じて出来ることからやるという実務的なリアリティを確保する一方、ここまでやれば十分というお墨付きはなく、不断の努力を継続するという、“二重の意味”で「できる限り」の、リスクマネジメントを実行させる必要があるからです。
そもそもリスクマネジメントは、不確実性の程度(実現の蓋然性)とそれが実現したときの重大性(インパクト)の掛け合わせである「リスク」を見極めるという、客観性・専門性が必要な情報の収集・評価を前提としつつ、正または負に相関する複数の「リスク」への対応に“優先順位”と“折り合い”を付けるという、当事者性・裁量性が必要な選択・決断の営みです。これは、経営者の職務そのものです。
経営者が、従業員の健康管理を従業員本人に押し付けたり、医療関係者に丸投げしたりすれば、このリスクマネジメントは機能しません。現代における従業員の健康は、経営者の本領である業務管理や人事労務などと、最早、切っても切れない関係にあります。
前回紹介した、過労死等に関する経営者個人の民事責任を認定した裁判例が、その組織体制・システムの不整備や、不適切な人事労務管理について、経営者を厳しく非難していることを想起してください。経営者は、自らの職務として、このリスクマネジメントに取り組まなければならないのです。
2 合理的配慮提供義務の影響
障害者雇用促進法が改正され、昨年4月から、障害者に対する「合理的配慮」の提供が事業主に義務付けられました。同法に基づき「合理的配慮」を提供しなければならない「障害者」は、障害者手帳を取得している労働者には限られません。傷病により、ある程度の期間、継続的に労働に支障が生じている労働者は、その対象に含まれます。
さらに、来年4月から精神障害者(発達障害を持つ人を含む)の雇用が“義務化”されることもあり、疾病の側面を強く有する障害者の雇用が増加します。特に、発達障害の特性を持っていることが大人になってから判明する人が増え、発達障害に対する知識と関心が急速に広まっています。
また、障害者雇用促進法が直接適用されるか否かにかかわらず、がんや難病に罹患しながら就労を継続しようとする労働者を支援する企業の取組みを求める行政の動きも活発になっています。
これらの影響は、確実に、安全配慮義務にも及ぶはずです。
これまで、ときに企業は、安全配慮義務を履行することを理由にして、健康に問題が生じた労働者を職場から排除しようとする方向に強く傾くきらいがあったことはいがめません。ところが、これからは、健康リスクが高い労働者を職場に受け入れ、健康リスクをコントロールしながら就労する能力を高め、労働させなければならないのです。経営者は、上述のとおり再構成された安全配慮義務を自らの職務であると自覚し、リスクマネジメントに取り組む必要があることは、明白です。
安全配慮義務の法的性質は、“結果債務”ではなく“手段債務”であるとされています。しかし、健康リスクが顕在化したときの結果の重大さと被害者救済の必要から、司法の現場では、労働者の素因や基礎疾患によって企業を免責・減責せず、結果責任を問うような判断になる傾向があります。
一方では、基礎疾患が増悪した事案に対する行政の労災認定(労災保険給付の決定)のハードルが高く設定され過ぎているという問題が指摘されています。
本来、健康リスクが高い労働者の就労を促進する観点からは、労働に内在するリスクの顕在化に対して事業主の過失の有無を問わずに補償する労災認定は積極的に行われるべきであるのに対し、リスクマネジメントに努力した事業主には相応に民事責任を免責・軽減することが、政策目的にかなうと思われます。
おそらくは近い将来、この歪みは調整されるのではないかとも予感するものの、当面、企業は、労災保険による補償が頼りにはならない中で、健康リスクが高い労働者のリスク顕在化を防止しながらその就労を支援するという、難しい舵取りに挑まなければなりません。
3 「働き方改革」の本質
政府が強力に推進する「働き方改革」は、日本の労働生産性を向上させることが目的であると言われていますが、その方法は、長時間労働是正と「同一労働同一賃金」だけではありません。「働き方改革」の実行計画に挙げられているその他のテーマは、病気の治療、子育て・介護等と仕事の両立、障害者就労の推進、外国人材の受入れ、女性・若者が活躍しやすい環境整備、高齢者の就業促進等であることからも読み取れるように、「働き方改革」が、日本の労働におけるダイバーシティ&インクルージョンを強力に推し進めようとしていることは明らかです。
現実問題として、ダイバーシティ&インクルージョンを進めなければ、正社員の長時間労働は改善せず、非正規との格差は是正されず、今日のビジネスが必要とするイノベーションも生まれません。
これまでの連載を読んでいただいた読者には、既に明らかだと思いますが、筆者が、「健康経営」をテーマとして訴えてきたことは、すべてこの、労働におけるダイバーシティ&インクルージョンに収斂していきます。そのためには、人事労務も、医療、福祉、心理等の専門家との連携を強め、多様な人材の活用と職場の活性を高める力をつける必要があるのです。
4 「健康経営」は経営者の法的責任と如何なる関係にあるのか?
「健康経営」は、政府では経産省が主導しており、企業では、人事労務が主な推進担当であることが多いようです。健康経営銘柄や健康経営優良法人認定制度の審査項目は、従来から地道に産業保健活動に従事してきた方々の目からすれは、重要な項目を網羅しているわけではありません。
しかし、筆者は、「『健康経営』は、産業保健とどう違うのでしょうか?」と質問されたとき、敢えて、「違いはありません」と答えるようにしています。「健康経営」とは、法が求めている産業保健を、経営者が“我が事”として積極的に取り組むことができるように、“ビジネスの言葉”で表現し直したものだと理解しているからです。
そもそも、上述のとおり、労働安全衛生法体系が労使の自主的な取組みを促す方向に変容し、安全配慮義務もリスクマネジメントに取り組む経営者主体の義務として再構成するべき状況にありますから、「健康経営」という言葉と訴求方法に着目したセンスは素晴らしいと思っています。
政府首脳が「働き方改革」を決断した動機が、少子化による国力の低下を是が非でも回避する窮余の一策であったとしても、これによって、ようやく労働のダイバーシティ&インクルージョンが強力に推進されるようになれば、日本は真に豊かな社会を実現することができます。
同様に、たとえ現在の「健康経営」ブームの背景が、「ブラック企業」とみなされて益々人材不足に陥ることを恐れる経営者の焦燥であったとしても、経営者がこれをきっかけに産業保健と障害者雇用の効用を実感し、人事労務が医療や福祉との連携を強め、その人材活用と組織活性を高める実力をつけることになるならば、万々歳です。筆者もその支援に今後も邁進する所存です。
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本稿における見解は、筆者個人限りのものであり、所属する法律事務所を代表するものではないことをご承知いただければ幸いです。
【参考文献】
●合理的配慮について:川島聡ほか著「合理的配慮―対話を開く、対話が拓く」(2016年7月・有斐閣)
●発達障害について:熊谷高幸著「自閉症と感覚過敏―特有な世界はなぜ生まれ、どう支援すべきか?」(2017年1月・新曜社)