人事労務戦略としての健康経営【第4回】

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人事労務戦略としての「健康経営」(4)

 (初出:「ビジネスガイド」(日本法令)2017年6月号)

弁護士 小島健一

 日本経済再生に向けた「最大のチャレンジ」とされる「働き方改革」を強力に推進する政府の動きが本格化しています。企業がこれに対応するためには、人事労務の諸制度やシステムを根本的に見直さなければならないだけではなく、社員一人ひとりの意識を大きく転換させ、企業文化や職場風土まで変えていかなければなりません。同じく労働生産性の向上を目的とする企業の「健康経営」の取組みは、この「働き方改革」にどのようにリンクするでしょうか。

1 働き方改革の「秘策」とは?

  3月末、政府の働き方改革実現会議が「働き方改革実行計画」をまとめました。月あたり上限時間は100時間「以下」か「未満」かをめぐって最後まで労使代表の話合いが難航した時間外労働規制にばかり注目が集まっていますが、実行計画の全容は多岐にわたり、極めて包括的です。

 実行計画のロードマップに掲げられたテーマは、以下の9項目です。さながら、日本社会に山積する様々な課題の“鏡”です。

 ●非正規雇用の待遇改善
 ●賃金引上げと労働生産性の向上
 ●長時間労働の是正
 ●柔軟な働き方がしやすい環境整備
 ●病気の治療、子育て・介護等と仕事の両立、障害者就労の推進
 ●外国人材の受入れ
 ●女性・若者が活躍しやすい環境整備
 ●雇用吸収力の高い産業への転職・再就職支援、人材育成、格差を固定化させない教育の充実
 ●高齢者の就業促進

 目標がはっきりしないとか、総花的だとか、「働き方」とは余り関係のないような事項が含まれているとか、実行計画に対する批判的なコメントも目にしますが、働くことは生きることそのものである以上、当然のことです。そもそも「働き方」はHowの問題であって、「何のために、誰のために働くのか」というWhyの疑問には、我々一人ひとりが答えを見つけなければなりません。

 ただ、一つはっきり言えることは、人間をロボットやAIの如く考え、働くことが<経営者・上司・職場・顧客・取引先>という閉じた関係の中で完結するかの如く決め込んだ、フィクションに依存する経営は、いよいよ行き詰った、ということです。頑強な精神と肉体を持ち、家庭や私生活など顧みず、馬車馬のように働いてくれる“スーパー労働者”など、本当はどこにもいなかったのです。“会社ごっこ”や“我慢大会”はもう終わりにしましょう。現実は、誰もが、何らかの意味で制約を抱える「弱い」存在であることを直視しなければ、「働き方改革」は成し遂げられません。

 これだけの諸問題を一気に改革することなど果たして可能なのだろうかと、途方に暮れている経営者や人事労務担当者も多いでしょう。あるいは、企業を存続させながらこれだけの改革メニューをこなせるのは余裕のある大企業だけで、自分の会社には縁遠いことだと、端からあきらめているかもしれません。

 しかしながら、これから紹介する働き方改革の「秘策」は、企業規模の大小を問いません。たとえ初めは人道的・温情的な動機から始めたとしても、やがて、職場全体を活性化させ、社員全員の労働生産性をも向上させる絶大な効果に気付いた一部の中小企業の経営者によって、先んじて実践されてきました。

 「働き方改革実行計画」の中に、ひっそりと、「障害者等の希望や能力を活かした就労支援の推進」という小項目があります。筆者は、個々の職場が、障害者を働く仲間として迎え入れることこそ、働き方改革の「決め手」であり、他の多くのメジャーな課題の改革を促進するための「秘策」であると考えています。

 なぜでしょうか? それは、以下のような連鎖のメカニズムです。

 ●障害者雇用による「働き方改革」

   職場が、障害者をチームの一員(戦力)として迎え入れる

           ⇓

  業務のやり方を、障害者が参加できるように変える
  職場環境を、障害者が安心して働けるように変える

           ⇓

  社員全員が、多様な能力を最大限に発揮できる
  社員全員が、多様な制約にかかわらず長期就業できる

           ⇓

  職場全体が活性化し、その創造性と生産性が向上する

  障害者は、これまで通常の職場には居なかった、最も「弱い」労働者です。もとより、“我慢大会”や“会社ごっこ”などには、つき合い切れません。その新メンバーを戦力にしなければならないのであれば、各メンバーの役割、各業務の優先順位を明確にしなければなりません。コミュニケーションの質・量、情報共有を充実させなければなりません。業務プロセスの無理・無駄・リスクがあぶり出されます。病気、育児、介護等により「制約のある社員」でも、メンタル不調の社員でも、新卒・中途入社したばかりの社員でも、「助けてもらう」立場であると同時に、「助ける」立場にならなければなりません。

 こうして、社員一人ひとりが、職場の側が、変化を迫られることになるのです。

2 精神障害者の就労定着への取組み

●何故、精神障害者なのか?

 障害者が働く姿を想像する場合、肢体不自由、視覚・聴覚障害などの身体障害や、ダウン症、自閉症などの知的障害をイメージする読者が多いでしょう。ところが、数年前から、新たに障害者を雇用しようとすると、統合失調症、発達障害(アスペルガー症候群等の自閉症スペクトラム障害、ADHD等)、気分障害(うつ病等)といった精神障害の求職者ばかりが目立つ状況へと大きく変化しました(図1参照)。

 その背景には、障害者雇用促進法に基づく障害者の「雇用義務制度」において、法定雇用率不達成の場合に「納付金」の支払義務を負う事業主の規模の要件が引き下げられてきたこと(現在、従業員100人超が対象)と、法定雇用率自体も上昇したこと(現在2.0%。来年4月にはさらに引き上げ)から、多くの企業が障害者雇用を積極化させる一方、働きたい精神障害者が急増していることがあります。精神障害の求職者には、メンタル不調による一般雇用退職者の再チャレンジや、大人になって判明した発達障害の特性を持つ方も含まれます。

 したがって、企業がこれから障害者の雇用に取り組む場合、主として精神障害者を想定することが現実的なのです。

【図1】(クリックで拡大)

健康経営(4)

出典:厚生労働省「障害者雇用関係資料」

●就労定着が難しいのが当たり前

 これまで、多くの障害者の就労場所は、就労継続支援事業所や大企業の特例子会社など、障害者を雇用することを目的とする職場に限られていましたので、自分の職場の同僚に障害者がいる状況は、滅多にないことでした。しかし、精神障害者は、通常の職場で働きたいと希望している方が多く、また、通常の業務に従事してこそ、その能力を発揮して会社に貢献できることが多いのです。

 ただ、精神障害者は、身体障害者や知的障害者に比べ、就業の継続、職場への定着が難しく、短期間で退職してしまうケースが目立つのも事実です。2008年から2009年にかけて実施された調査研究によれば、精神障害者の入社1年後の就労継続率は40%程度にとどまります。身体障害に比べると、コミュニケーションに困難を抱える度合いが強く、知的障害に比べると、就労上の困難が日々変化するので、職場や仕事にうまく適応できず、体調を崩し易いからです。

 メンタル不調によって勤怠が乱れ、パフォーマンスが不良になったり、休職・復職を繰り返したりする社員の処遇に苦労している職場は、このことを容易に理解できるでしょう。メンタル不調になった社員は、とかく、上司や同僚から“お荷物”と認識され、職場から排除される方向になりがちです。

 ところが、その職場に精神障害者が加わり、上司や同僚は、精神障害者の就労継続と職場定着に努力しなければならないことになります。この出会いは、メンタル不調の社員や職場の上司と同僚にどのような変化をもたらすでしょうか。

●精神障害者の就労定着を成功させるには?

 精神障害者を漫然と雇って、職場に放り込めば良いというものではありません。それでは、精神障害者はすぐに退職してしまい、法定雇用率は達成されないだけではなく、上司や同僚には障害者に対するネガティブ・イメージと後味の悪さばかりが残るでしょう。それどころか、そのようなやり方は、精神障害者本人に対する会社の安全配慮義務の観点からも、危険極まりない、無責任な行為です。

 精神障害者の就労定着を適切に支援することにより、個人と組織が活性化され、「働き方改革」が推進されるか否かは、経営者の情熱と人事労務担当者の戦略的な取り組みにかかっています。

 まずは、精神障害者の採用・配置、定着支援のプロセスが重要です。本人の自己理解が進んでいるか、支援機関に繋がって就労訓練等を受けているか、障害特性を見極めて適材適所しなければなりません。

 さらに、精神障害者本人の自己管理と職場担当者による見守り、上司・同僚の障害特性に対する理解が必要です。精神障害は「見えない障害」ですから、日々のモニタリングと適時の介入が重要です。

 これらは、簡単なことではありませんが、企業実習や「トライアル雇用」を活用することもできます。外部の「ジョブコーチ」、障害者就業・生活支援センター、発達障害支援センターなどの支援機関を利用することもできます。

 何より、「今は、いいシステムがあるのです。」

 SPIS(エスピス)という、精神障害者の就労定着を支援するWebシステムです。端的に言ってしまえば、当事者・企業・支援者間の情報共有・連携プラットフォームです。NPO法人全国精神障害者就労支援事業所連合会(vfoster)が、SPISの普及活動を展開しています。

 そもそもSPISは、有限会社奥進システムという小さな会社が、NPO法人大阪精神障害者就労支援ネットワーク(JSN)という就労移行支援事業所での訓練を経た精神障害者を雇い入れたことをきっかけに、自社の業務日報とJSNでの訓練日誌などをヒントに開発したものです。統合失調症の障害者本人がその開発を担当しました。SPISは、障害者雇用の最前線の現場が生み出したツールなのです。

 SPISは、当事者本人が、毎日、自分のコンディションと服薬の状況と一日の感想を日報形式で記録することから始まります。当事者の“働き続けたい”という想いが起点となるのです。コンディションの具体的な評価項目(生活面、社会面、仕事面)は、当事者自身が自分固有の特性に応じて決めます。この日報データは、時系列のグラフで表示され、「見える化」されます。これによって、当事者の自己理解と自己管理能力が向上します。

 SPISには、当事者だけでなく、職場担当者と外部相談員(臨床心理士、精神保健福祉士等)がアクセスし、それぞれコメントを書き込み、三者間での「対話」を続けます。これにより、当事者には「見守られている」という安心感が醸成され、職場担当者には、当事者の障害特性の理解が深まります。外部相談員のサポートのもと、職場担当者のカウンセリング・マインドとコーチング・スキルが向上します。

 SPISの利用期間は、就労開始から6ヵ月間を基本としていますが、原則として月に1回のリアルでの三者面談も組み合わせ、「見える化」された日報データを見ながらの振り返りを行います。こうして、この三者間には、信頼と物語が育まれ、「世界最小のコミュニティ」が形成されてゆきます。

 2014年に運用開始されて以来、SPISの利用者は、2016年5月時点で約100名に達しましたが、利用者の1年目の就労率は93%、1年6ヵ月目で80%という良好な定着実績を残しています。

3 人の「弱さ」を前提とする「健康経営」

  経営者のトップダウンにより時間外労働の削減、有給休暇取得の促進に取り組んでいる企業では、各職場において、業務内容とその遂行方法を見直し、業績を確保しながらも、効率良く業務を遂行しようと相当な努力をしていることでしょう。しかし、誰もがその流れに乗れるほど、人は器用ではありません。時間を掛けることによって何とか結果を出してきた人は、労働時間が制限されれば評価を下げ、ストレスが高まるでしょう。部下を厳しく追い込む方法によって部署の成績を上げてきた管理者は、益々、高圧的な管理を強めてしまいかねません。

 経営者は、業績向上と労働時間削減を両立させるために、人間の本質について、よくよく思案しなければなりません。

 デラウェア大学の古人類学者カレン・ローゼンバーグ教授が唱える新しい進化論を紹介します。

 ヒトは、出産に他者からの介助を必要とする唯一の霊長類だそうです。ヒトは、直立歩行を始めたために、胎児の通り道である骨盤内腔の広さが制限されるようになり、胎児が産道を通る際に複雑に身体をひねったり回転したりするために、超難産になってしまいました。しかし、ヒトはこの「弱さ」ゆえに、協力し合う社会を必要とするようになり、その結果、強くなることができたのです。

 社員の「弱さ」を前提として、社員が互いに「助けて」と言える組織をつくるところから始めるしかないのではないでしょうか。

 「健康経営」を「働き方改革」の有効な処方箋とするために、前号でも強調した産業看護職の活用に加え、障害者の戦力化を真剣にご検討いただくことを望みます。

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 本稿における見解は、筆者個人限りのものであり、所属する法律事務所を代表するものではないことをご承知いただければ幸いです。

【参考文献】
●「SPIS相談員養成講座テキスト(1:概論編)」(発行:NPO法人全国精神障害者就労支援事業所連合会)
●「精神障害者の就労定着をめぐって ~メンタル不調のセルフケア/ラインケアをサポートするWebシステム『SPIS』による雇用管理の取り組み~」(発行:NPO法人全国精神障害者就労支援事業所連合会、2017年3月)
●「精神障害者の雇用2013」働く広場増刊号(発行:独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構、2014年3月)
http://www.jeed.or.jp/disability/data/works/book/2013_zoukan/index.html#page=29
(同増刊号を始め、「働く広場」は、上記の機構ホームページでも読むことができます。)

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