人事労務戦略としての健康経営【第1回】
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人事労務戦略としての「健康経営」(1)
(初出:「ビジネスガイド」(日本法令)2016年10月号)
弁護士 小島健一
「健康経営」の意義や政府が推進する施策の全般については、本誌(注:「ビジネスガイド」(日本法令))8月号で経済産業省商務情報政策局ヘルスケア産業課の江崎禎英氏が丁寧にまとめておられますので、是非、ご参照ください。
本連載では、労働法務の実務家として、日々、クライアントの相談に乗り、紛争の予防・解決に奮闘し、また、産業保健職や社会保険労務士の皆さんと共に、個人と組織を支援するより良い方法について研究・議論している著者の立場から、実感に根差した個人的な見解を、できる限り率直に語ることにより、読者の考察のよすがとしたいと思います。
今回は、身近なところでの「健康経営」に関わる様々な取組みや活動、労働法務としての「健康経営」について社会保険労務士の活躍が期待されること、戦略的な人事労務施策としての「健康経営」の可能性を実感した事例、「健康経営」に対する批判への著者の所感などをお伝えします。
1 「健康経営」をめぐる熱い夏
この記事を読者の皆さんが目にするのは、リオ・オリンピックのメダルラッシュの興奮から、ようやく落ち着きを取り戻し始めた頃かもしれません。日本は史上最高数のメダルを獲得し、4年後の東京が益々楽しみになりました。
一方、今年の夏は、「健康経営」に期するものがある、働く人の健康を願う皆さんにとって、そのたぎる熱意を噴火させる時を待ち、静かに、着々と準備を整える時であったかもしれません。
以下では、まず、筆者に身近なところでの「健康経営」をめぐるこの夏の動きを追ってみます。
(1)健康経営アドバイザー
初夏ころ、親しい友人達から、次々と、「『健康経営アドバイザー(初級)』の認定を受けました!」という知らせが、Facebookにアップされるようになりました。
健康経営アドバイザーとは、経産省の委託を受け、東京商工会議所が、中小企業の「健康経営」の普及・推進のために始めた取組みです。①社会保険労務士、中小企業診断士、保健師、管理栄養士等の専門家、②経営者や人事担当者、③銀行・生損保などの金融機関の職員などが対象者として想定されています。企業の経営と社員の健康との密接な関わりを理解し、中小企業における「健康経営」を実践・支援する役割が期待されています。
この7月、東京商工会議所は、東京都に対し、健康経営アドバイザーを企業に無料で派遣する制度を創設することを正式に要望しました。東京商工会議所から企業に派遣されるためには、さらに、別途始まる実務研修を受けることが必要になると予定されています。
東京で始まった健康経営アドバイザーの取り組みが成果を上げることが、全国各地の商工会議所に同様の取り組みを横展開させる試金石になると見られます。これにより、中小企業が「健康経営」を始めるハードルが下がること、また、各分野の専門家が、経営と健康という異質な分野を統合する助言の必要性に思いを致すきっかけになることが期待されます。
(2)協会けんぽ
日経新聞の8月19日夕刊1面に「『健康経営』中小を支援」の見出しが躍りました。中小企業の社員の多くとその家族が加入する「協会けんぽ」(全国健康保険協会)による「健康経営」の普及に向けた取り組みが取り上げられました。この記事は、ある意味で日経らしく、協会けんぽの各県支部が、企業を健康診断の受診率や社員のメタボ比率によって格付けし、地元金融機関が、その格付けに応じて企業への貸出金利を優遇する等の経済的インセンティブ付与の取組みが8月中にも始まることを中心に紹介しています。
そもそも、協会けんぽは、平成20年の民営化以降、各県支部の自主自律的な運営が進んでおり、「健康経営」に対する先駆的な取り組みとして、既に、鳥取支部による「社員の健康づくり宣言」(8月1日現在・813事業所)や大分支部による「一社一健康宣言」(8月1日現在・591事業所)等が注目されています。
ところで、「さんぽ会」(産業保健研究会)は、20有余年にわたり、産業保健に携わる保健師、看護師、管理栄養士等のコ・メディカルの方々が主体となって、企業の経営者や人事・健保組合担当者、産業医を初めとする産業保健に関わる医師・歯科医師も加わり、企業経営における産業保健のプレゼンスを高め、働く人々の健康に真に役立つ知見・手法について、活発に研究と議論を続けている団体ですが、近年は、大企業や医療サービス業に勤務するコ・メディカルにとどまらず、協会けんぽに勤務するコ・メディカルの方々の積極的な参加、意欲的な発言が目立っています。
中小企業の社員1人ひとりの健康情報を蓄積している協会けんぽが、経営者に対し、社員の健康づくりを支援するために必要な情報を提供し、具体的な施策を助言することは、これまで大企業とその健康保険組合にとどまっていた「健康経営」が中小企業に浸透する基盤を提供するものであり、大いに期待されます。
(3)メンタル対策研究会
東京都社労士会の自主研究グループの一つとして、「メンタル対策研究会」という、社員の心の健康に強い関心を持つ社労士有志の勉強会があります。10年ほど前から、「社会保険労務士は中小企業メンタルヘルス対策のキーパーソン!」のスローガンのもと、第一線の精神医学、法学等の研究者・実務家を招き、社員のメンタルヘルスに関わる研究・発表等の活動を活発に展開しています。
この夏は、以前から同研究会を支援してきた吉野聡精神科産業医の最新刊「『職場のメンタルヘルス』を強化する」を題材とし、中小企業のメンタルヘルス対策に役立つ知識・手法について集中的に学び、議論しています。
このような社労士自身による自主的な勉強会が全国各地に組織されることが期待されます。
(4)メンタルヘルス法務主任者
厚生労働省の「こころの耳」サイトに掲載されているのでご存知の方も多いかと思いますが、「メンタルヘルス法務主任者」という民間資格があります。5年ほど前から、メンタルヘルス法務の第一人者である三柴丈典教授(近畿大学法学部)が主宰する一般社団法人産業保健法学研究会(前産業保健法務研究研修センター)が、40時間前後にわたる講義(メンタルヘルスに関わる裁判例を踏まえた法実務を中心に、経営、産業保健、精神医学、産業カウンセリング、精神障害者雇用等の多岐にわたる)を提供し、事例問題を体系的かつ実務的に解決する知識・能力を厳しく判定した上で、この資格を認定しています。メンタルヘルス法務主任者は、それぞれの立場で、個人と組織の成長と適応を支援することが期待されています。
既に、数多くの社会保険労務士の方々がこの資格講座に参加し、資格取得後も事例検討会等を通じて、企業の人事担当者や産業保健職の会員と共に熱心な研鑽を続けています。この夏は、さらに発達、人材、組織開発等の講義を強化した第5期資格講座が開催され、多くの方々が参加しています。
2 「健康経営」は労働法務の問題でもある
こうした背景のもと、社会保険労務士の方々から、経営者に訴求する付加価値として「健康経営」を売りにしたいという声をしばしば聞くようになりました。
そこで問われるのが、果たして、「健康経営」は士業の飯の種になるのだろうか?という疑問です。これは、筆者自身にも向けられた問いでもあるのですが、個人的見解としての答えは、期待も込めてYESです。
筆者自身は、人事労務の分野を専門とし、主として企業をクライアントとする弁護士です。もっとも、クライアントの過半は外資系企業であるため、紛争が本格化する前の段階から相談が持ち込まれ、通常は弁護士が扱わないような新しい問題にも関わることが多い、というユニークな経験をしていると思います。
そもそも、外資系の人事労務は、海外本社の影響を強く受け、短期的で厳しい判断をする傾向があるというイメージで捉えられていますが、同時に、そのような厳しさの中にも、しばしば、経営者や人事責任者が、相手方へのフェアネスを重んじ、説明責任を果たし得る手続きを追求しようとする、という一面もあります。日本の子会社、支店等の人的規模はさほど大きくはなく、中小企業と同様の制約を抱えていることが多いのですが、問題発生の早期の段階から弁護士に相談することを躊躇しない、という組織文化があります。このようなところが、ともすれば本音と建前が乖離しがちで、問題をなかなか外部の専門家に相談せずに抱え込んでしまう傾向がある日本企業とはかなり異なる、外資系企業の特徴ではなかろうかと思います。
そのようなことから、幸いにも、筆者は、社会保険労務士の皆さんとかなり似た立ち位置で、採用・配置から解雇・退職まで、会社と従業員の間で生起する様々な問題について、法的な観点にとどまらない助言や紛争解決に携わることが多いのです。
そのような立場から筆者が強く実感していることは、「最早、従業員の健康に対する理解なくして、企業の人事労務について、適切な助言も紛争解決も出来ない」ということです。
「失われた20年」において、人事労務の問題に従業員の心身の健康が関わる割合は、飛躍的に大きくなりました。例えば、「労働判例」誌に掲載される裁判例を眺めていただければ、その半数ほどが、何らかの形で従業員の心身の健康に関係していることを確認できます。
「健康経営」は、一見すると前向きな施策のようですが、その土台は、労働基準法や労働安全衛生法による事業者として果たすべき義務を遵守すること(つまり、労務コンプライアンス)です。また、経営者が社員の健康増進に積極的になればなるほど、従業員にとっては、強制の契機やプライバシーの危機(つまり、労使間のコンフリクト)が強まるおそれがあります。また、「健康経営」は、健康な従業員だけで事業を運営していくという考え方ではなく、病気を抱える従業員が、病気と付き合いながら就業を継続するのを支援すること(つまり、健康配慮義務と解雇回避努力義務の止揚)も含んでいると言われています。「健康経営」は、明らかに、人事労務の課題です。
それも、最終的には裁判所で争われる可能性があるという意味だけではなく、基本的なコンセプトが異なる経営と医療の相克について、医療の専門家の関与を得ながらも、法と社会正義を頼りに道筋を付けていく営みであるという意味で、すぐれて労働法務らしい問題です。
筆者が関わる人事労務案件は、10年以上前から、メンタル不調に関わる事案が過半を占めるほどになりましたが、近年は、その他の疾病を抱える従業員について相談を受けることも増えました。例えば、悪性リンパ腫に罹患して日に日に体力が失われつつも、最期まで仕事を続けたいジャーナリスト、特発性過眠症と月経困難症の併発に苦しみ、就労が困難になった女性社員、うつ病に併発した糖尿病が重症化し、出社はしても周囲との意思疎通にさえ支障を来している男性社員などです。多くの企業が、病気を抱えた従業員の適正配置と雇用管理に苦心しています。
しかし、今年2月には、厚生労働省から「事業場における治療と職業生活の両立支援のためのガイドライン」が公表され、4月からは、改正障害者雇用促進法の障害者に対する差別禁止と合理的配慮提供義務が施行されています。これからは益々、たとえ業務起因性がない病気であっても、就業と治療の両立を支援し、就業への制約を可能な限り除去・緩和する措置をとることが強く求められるようになるでしょう。
病気が絡んでくると、医療の素人である私達は、ともすれば、医師任せになり、思考停止になりがちです。ところが、産業医と主治医との間で、さらには複数の診療科にまたがる疾病の場合は主治医相互に、しばしば、十分な連携がなされないために、人事担当者にそのしわ寄せが来てしまうことがあるのです。このような状況にあるクライアントには、病気や医療についてある程度の見識を持ち、最悪の事態を想定してリスク・マネジメントしながらも、人事労務の主体性を回復・維持することができるようアドバイスする客観的な目が必要です。
「職域」は、臨床を専門とする医師からすれば、未知の不思議な世界です。職場では仕事をするのが本分であることにも、企業が厳しい競争にさらされ、利潤追求のプレッシャーを受けていることにも、なかなか実感がありません。本来、産業医こそが、医療と職場の両方を理解し、企業が職場の健康問題に適切に対処できるよう、その役割を果たすことが期待される制度設計になっていますが、残念ながら、そのようなことができる(或いは、その意欲がある)産業医はごく一部にとどまっているのが実情ではないでしょうか。このような需要と供給のミスマッチの現状において、誰かがその役割を実質的に補わざるを得ません。
社会保険労務士の方々は、労働法務にとどまらず、経営全般についても、中小企業の経営者から直接アドバイスを求められることが多いはずですから、「健康経営」のアドバイザーとして、絶好の立ち位置にいるのです。そのチャンスを活かさない手はないと思いますし、また、経営者の期待に是非とも応えていただきたいと思います。
3 「健康経営」のコンサルティングの妙味
筆者自身、最近、期せずして、「健康経営」の推進をコンサルティングする機会をいただきました。そこで感じたことは、これは、まさしく人事労務というカードの裏面であり、経営者にとって、内外の資源をフル活用してでも、戦略的に取り組むに値するものかもしれない、ということです。
もちろん守秘義務を負っている案件ですから、事実関係を適宜変更して、架空の事例として以下に説明します。
ある会社では、所属する企業グループ全体の内部通報窓口に対し、経営幹部が主導する業務改革や人事労務についての批判や不満が頻繁に寄せられ、苦慮していました。通報は、複数の従業員から送られているようであり、事実関係を誤解したものや会社方針を理解していないが故のものもありましたが、この会社には通報者が匿名にされていますから、内部通報窓口があるグループ本社を介した間接的な対応には、隔靴掻痒の感がありました。とうとう業を煮やしたグループ本社は、この会社に対し、従業員全員と個別面談し、その批判や不満を聴き取り、会社方針への理解を徹底することを強く求めました。
しかし、このような個別面談はうまく行くでしょうか? この会社の人事責任者は困り果て、その不安を打ち明けました。そこで筆者は一計を案じ、次のように助言しました。「その面談、健康経営のニーズを把握するための面談として実施したらいかがでしょうか?」と。
結局、この会社は、社長が健康経営宣言を行い、会社は従業員とその家族の健康を大切に考えていることを表明した上で、人事による個別面談では、任意性を損なわないよう配慮しながら、従業員とその家族の健康、出産、育児・介護等の実情や不安、会社に期待すること等についてフランクに話し合いました。そうした中で、職場の雰囲気や働き甲斐についても自然な流れで話題にするようにしました。オープンに話をする従業員もいれば、警戒して型どおりの問答から外れない従業員もいたでしょうが、それで当然です。少なくとも、会社に対する不信や労使対立を決定的なものにしたり、経営幹部への批判や不満を無理に抑え込んだりするようなことは避けられました。
この会社は、これから継続的に「健康経営」の趣旨に沿った施策を実施していきます。労使関係のしこりは、そう簡単になくならないかもしれませんが、経営者が本気であれば、その真意は従業員の間に自ずと浸透していくはずです。正面からぶつかって白黒をつけるのではない、漢方薬のような戦略ですが、そこに「健康経営」の考え方の妙味があると感じます。
4 「健康経営」の取り組みに対する批判について
政府主導で始まった感のある、このたびの「健康経営」の普及・推進に向けた取組みには、各方面からの批判もあり、懐疑的な経営者も少なくないでしょう。
例えば、代表的な批判(ないしは、疑問)として、以下のような指摘があります。
①健康は自己責任の問題であって、会社が丸抱えで面倒を見るべきことではない
②従業員の生産性の向上や創造性の発揮につながるという科学的な根拠があるのか
これらの批判は、一面の真実を突いています。しかし、だからといって、企業は「健康経営」に取り組む必要はないという結論にはならないと思われます。その理由については、既に多くの説明がされていますが、筆者個人として特に付け加えるとすれば、次のような点があります。
①「健康は自己責任の問題であって、会社が丸抱えで面倒を見るべきことではない」との批判について
労使関係には、そもそも、どちらか一方が全面的な義務を負うという事柄はありません。会社の健康配慮義務に対して、従業員の自己保健義務が強調されるのは、当然のことです。
もっとも、それは、責任を押し付け合う“ゼロサムゲーム”ではなく、相手方に対してどちらがより誠実に振る舞うことができるか、という競争関係にあると考えて行動した方が、はるかに生産的であり、結局、裁判所が判決により決着を付けざるを得ない局面に至った場合を想定しても、有効な戦略です。
また、健康を自己管理する能力は、「ヘルスリテラシー」と言い換えることにより、会社としてすべきことが明確になります。すなわち、社員の健康は、つづまるところ、本人が主体的に自らを助ける行動をとらなければ、達成することはできません。そのためには、社員1人ひとりが「健康や医療に関する情報を入手し、理解し、評価し、活用する力」(ヘルスリテラシー)を高める必要があります。会社は、社員がヘルスリテラシーを高め、活かすことができるよう、その障害を取り除き、前向きな動機付けを与え、学習の機会や有益な情報を提供するべきなのです。
②「従業員の生産性の向上や創造性の発揮につながるという科学的な根拠があるのか」との批判について
このような「エビデンス」は、継続的に大量の調査をし、統計的な分析を経て、ようやく得られることになります。既にいくつかのものが発表されていますし、今後も、続々と発表されるでしょう。また、自社で「健康経営」を実践していくうえで、データをとり、施策の効果を検証し、PDCAサイクルを回していくことも、重要なことです。
しかし、「健康経営」を宣言し、とにかく始めてみる根拠として、経験的に得られた直感的な信念では不足でしょうか。そもそも、このような信念が無ければ、どれだけ沢山のエビデンスを突きつけられても、やらない理由はいくらでも見付けられます。
会社が社員の健康を大切に考えることと社員の生産性・創造性との関係は、いわゆる動機付け理論で言う、衛生要因と動機付け要因の両面があると思います。確かに、社員の生産性や創造性は、会社が「健康経営」を推進するからそれが益々高まるという単純なものではないかもしれません。しかし、社員に「うちの会社、うちの社長は、俺たちの健康なんてどうでもいいのが本音だ」と思われてしまったら、他にどれほど生産性・創造性を高めるはずの手を打っても、その効果は得られません。
次回以降は、企業が「健康経営」を推進する上で生じる問題について、さらに具体的に掘り下げていきたいと思います。
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なお、本稿における見解は、筆者個人限りのものであり、所属する法律事務所を代表するものではないことをご承知いただければ幸いです。
<参考URL>
■産業保健研究会(略称:さんぽ会) http://sanpokai.umin.jp/
■メンタル対策研究会 http://www.tokyosr.jp/profile/study/d50/
■産業保健法学研究会(略称:産保法研) http://www.oshlsc.or.jp/app/